グレーな家族

グレーな家族の中で育った愛着障害の私の葛藤

グレーな家族~家族を諦められない私のお話~♯2

母には頭ごなしに怒られることが多く、その多くは理不尽なことだった。

 

みんなで遊びに出かけてもいいか?と尋ねると、

「ダメに決まっているだろ。勉強をしろバカ」

日常的な素朴な疑問に関しても、

「そんなことも知らないのか!恥ずかしいからもう喋るな」

小腹がすいたから冷蔵庫をのぞいていると、

「そんなんだから太るんだよ。デーブ」と罵られることもあった。

 

両親は共働きで、いわゆる時短勤務で家事・育児・仕事を両立させていた。父は夜遅くんに帰るため、必然的に母がワンオペだ。子供を持った今ならわかる。余裕がなかったのだと。

 

父も母も接客業なので、必要最低限の洗濯だけはしていた。3.4日に1回ぐらいの頻度で、干しただけで乾いても雨が降ってもずっとバルコニーに干しっぱなしになっていたが、汚れているよりはましだった。バルコニーには父と母の寝室を通らないといけない間取りで、乾いた洗濯物を取り込もうとすると、部屋に勝手に入るなと怒られるので、洗濯された服を着るタイミングが難しかったことを覚えている。

母は、自分のペースでしか洗濯はしなかった。例え体操着や給食着も洗ってほしいタイミングで洗ってもらった試しがないので、洗わずに持っていくことが多かった。当時の私は母を助けたいと手伝っても要領が悪いと怒られ、作業が遅いと怒られ、何をしても罵倒されるので、母が言うとうりにすればいいや。と次第に考えることをやめて、ポカンとしていることが多かったと思う。常に無だ。

 

食事も作ってくれていたが、ゴキブリやうじが沸いている中で作られたご飯をよく食べていたなと、今考えたら吐き気がする。だが当時の私は無なので、そんなことは考えたことがなかった。

 

小学校高学年になり、友達付き合いが難しくなってきた。誰にでもいい顔をするので、友達が多かったが、派閥ができ始めどこに所属するか迫られるようになった。私自身自我がなく、みんなと仲良くすればいいじゃないかと思っていたが、小学校高学年になるとそうはいかない。だが、1人になるのが嫌だった私は選択するしかなかった。

 

そんな中、母が急に中学受験をしろと言い始め、塾に通わされる。

ただ私の頭の出来は悪く、考えることが苦手だったためどんどん落ちこぼれるようになった。学びの場でも、先生の話などほとんど聞いておらず、勉強のやり方が全然わからない。それでも母に怒られるのが怖くて毎日塾に通った。

 

だが落ちこぼれの私は塾でいじめられるようになった。