グレーな家族

グレーな家族の中で育った愛着障害の私の葛藤

グレーな家族~家族を諦められない私のお話~♯8

弟は私の2つ下で元々気性が荒く、友達ともよく喧嘩をしたりしていたが、彼もまた母親には逆らえない。私に比べると少し反発して見せたり、母と言い合っていることもあったが、その分手もかけられていて私からしたら羨ましく妬ましい存在だった。小さいころから「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」「弟の面倒をみておいて」という言葉で私に弟を擦り付けた。

 

両親は休みの日でも家を空けて夜中まで出かけることが多く、その多くはパチンコだった。小学生のうちはいつも弟と一緒に過ごしていた。少しずつ少しずつ弟がおかしくなっていくのは、幼い私にも感じ取れた。

 

最初におかしいなと思ったのは私が10歳ぐらいの時だった。2人で留守番しているときに急に弟が叫び始めた。「俺は死ぬ!死ぬから病院に連れて行ってくれ!」あまりにも泣き叫ぶので恐怖と心配ですぐに両親の携帯電話に電話した。ただ、両親はすぐに電話に出たためしがない。何度も留守番電話につながり何十回か電話した時にようやく電話に出た。電話の向こうの母の機嫌はとても悪く、一瞬怯んでしまったが「弟がおかしいから帰ってきてくれ」と伝えると「帰るから待ってろ」と電話が切れ、私たちは両親の帰宅を待った。しかし待てど暮らせど両親は帰ってこない。その後何度電話をかけても、両親は出ることはなかった。弟は泣き叫び続け、近所に住む人が何度か心配して訪ねてきてくれたが、私は「大丈夫です」と、助けを求めることはできなかった。結局両親が帰ってきたのは夜の22時だった。電話したのはお昼頃だったので、弟は途中で泣き疲れ部屋の隅でボーっとしていた。

 

この日を皮切りに、弟は両親が出かけようとするたびに泣き叫ぶようになった。そんな弟を見ても両親の気持ちは揺らがず、いつも泣き叫ぶ弟に背を向けて、「じゃあ、お姉ちゃん後はよろしくね」とパチンコに出かけて行った。

 

そんな日が1年ぐらい続いたが、弟も小学校高学年になり、友達と遊ぶ機会が増えたせいか自然と泣き叫ぶことはなくなった。

 

安心したのは束の間、中学校に入学した弟は気に食わないことがあると物を壊し、学校でも問題児に。私と同じように無理やり私立に入れられた弟だったが、何度も問題を起こすので、その度母は学校に呼び出された。改善されないので、とうとう弟は停学処分となった。その停学処分中に事件が起きた。